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雨止んで、とかく人間は言い訳を忘れる [法華経]

「言い訳」は誰にもある罪であるから、知らず知らずに生ずる間違いがそれを教えている。
言い訳が万人の誰にもある罪であり、間違いが必ずしも万人の誰にもあるわけではない。
アダムとイブが禁断の果実を何であるか誤って知らずに取って食べてしまったわけではなく、知っての上で食べたのである。
   
たとえば、国の運営などは決して間違いがあってはならない厳しさがある。
したがって、国が罪な言い訳をするということはごく日常なのである。
   
それに対し、誤って間違えることの失敗とは、日頃の言い訳が整わなくなって表われたことなのだ。
  
仏は古代から、言い訳とは上手く整えて使うことを覚えさせ、貴重な習慣としてきている。

だから、言い訳とは仏の方便であり、真実そのものとは違うが、真実へ導く上等の手段なのである。
 

「日蓮聖人の法華経戦略」・・方便品第二【第9月】の2 [法華経 方便品第二]

私が日本の日蓮聖人とはとりあえずどんな人かを知ってみたいと思って、励んで勉強し出した頃、一番最初に重大なことと教えられ、そして強く関心を深めたのは日蓮聖人のほかの誰にも無い法華経の「義」と「事」の区分について説かれていることの希薄な重大さでした。
                                           
日蓮聖人が現在なおも秘密に満ちていて、その潜在的な人気が衰えない理由は、一言で表せば、日蓮聖人の遺言の第一に示された日本国に唯一つの法華経の「事の戒壇」を必ず建設するという、とても強い意思による目標指示と、弟子たちへその建設義務を遺言に残されたということでした。
                                        
日蓮聖人の誰よりも奇抜に優れたところは、何としても大事なものこそはそれを形に表現して残していくことに意義があるということだったと思います。
そして、日蓮聖人は「事の戒壇」とは今すぐに建設されるものではなく、日本中が佛法信者で埋め尽くされ、日本が仏国と確実に定まった段階の暁にこそ建設されるものであらなければならないという厳しい格言付のものでした。
 
そして、最終的に日本が仏国となって事の戒壇が建設されるまでの期間の佛法普及のための戦い段階には「義の戒壇」として全国各地に信者の集まって礼拝するための、将来の事の戒壇に対する仮の修行場となるように、その義の戒壇のほうは仏国とならぬうちにも随時全国あちこちに造って行くという仏法戦略だったと考えられるのです。
 
本品のサイトブログへ ⇒ http://bit.ly/1JyUBqd
 
方便品第二.jpeg

「正しいからと決して油断はできない!」・・妙荘厳王本事品第二十七【第8月】 [妙荘厳王本事品第二十七]

因縁をそのままに離脱ばかりを図ろうとすると終いにはどうなるのでしょうか?
そんな恐ろしい将来がこの妙荘厳王一家には訪れようとしているのかもしれません。
                                    
そういえば、父の王も今まで婆羅門にはまっていたわけで、その過去の大きな因縁解決もまだ何もしないままに、いきなり正しいからと法華経の道へ転換を図ってその後すぐにも上手くやって行けるかが果たして大丈夫なのかも深刻な疑問になってきます。
                                       
この先、この一家を大きく包み込む問題はやはり過去の大きな因縁がのしかかってきて、その後の運命を左右して行くのかもしれませんね。
そのために一家はこの後、離ればなれに散らばり、王宮の八万四千の眷属は妙音菩薩、つまり淨徳夫人だけに着いて行ったということが、ある意味では過去から夫人のみ佛法には何も関心がなかったため、その分が眷属と共に一番大きな因縁が残ったということかもしれません。
                                        
二子の出家を認めたのも王ではなく淨徳夫人であり、家族の佛道選択に関して一切の判断権限を持っているものと思えますね。
つまり、淨徳夫人が他の家族の正しい佛法の進みに今後、追いつくにはとても大きな功徳を得る修行をしていかなければならないというわけなのでしょうか。
                               
このあたりの判断が今後の法華経解明の重要なカギとなっていくように思えてきました。
今までと違い、だいぶ応用段階に入ってきたようです、油断せず今後の修行の在り方は思いもよらないことになる覚悟が必要かもしれません。
振り落とされないよう、心を引き締めてかかりましょう!
                         
⇒ HP本日のブログへ:第8-27日-妙莊嚴王の後宮の八萬四千人-妙荘厳王本事品第二十七-四十七行-五十一行/    妙莊嚴王本事品第二十七.jpeg
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「如來の舞い降りる、仏教は今が流行り立て」・・薬草諭品第五【第四月目】 [法華経 薬草諭品第五]

方便品第二の中に、如來の説明について次のように釈迦は説いています。
                                      
「佛、舍利弗に告げたまわく、諸佛如來は但(ただ)菩薩を教化したもう。諸諸の所作あるは常に一時の爲なり。唯(ただ)佛の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり」
                                    
これは、あまりにも説いてくださいとしつこくせがむ舎利弗に対し、釈迦がやむを得ず説いた教えです。
                                    
この方便品の内容からすると、釈迦は舍利弗に対し、如來とははただ単に菩薩の位だけを教化するとはっきり言いきっていますね。
しかしながら、この薬草諭品における天・人・阿修羅衆へ法を聴かしめるということでして、今度は、菩薩の位ではない六道の衆生へ法を教えるとなっているところがどうも理解できないところです。
                                    
ところが、「諸諸の所作あるは常に一時の爲なり」ということで、その一時とは如來として舞い降りたその時点のことをいっているのだということがわかってきそうです。
つまり、菩薩以外の六道四生へ法を聴かしめるために如來は舞い降りようと、六道四生には意味の理解まではなく、熟練した理解を持ち得させることが本来の教化であって、それは菩薩だけだという意味になりそうです。
                       
そして、その一時とは一大事の時を意味しています。
ですから、降り立った時は六道の衆生皆すべての種種に応じて法を聴かしめ、歓喜させ善利益せしめ、その後、長らく君臨する際に如來は菩薩だけを教化して、そして恐らくこの世を去り、その後は教化された菩薩を通じてこの世の衆生へ法が説かれていくのではないかと思います。
                                      
つまり、その状態が崩れる時、すなわち教化済みの菩薩たちだけではすでにこの世の六道の衆生たちすべてを安定した状態で教えていけなくなり、混乱に陥る緊急事態の時、如來は再び下りてくるということなのだと思います。
 
⇒HPブログへリンク;第4-5日-今世-後世-実の如く之を知る-薬草喩品第五-十九行-二十五行/   藥艸諭品第五images.jpeg

『お金お金に明け暮れた結論』☆彡妙荘厳王本事品第二十七【第二月目】 [妙荘厳王本事品第二十七]

子供の欲しがるものもそうでないものも次から次へと何でもお金を使って買って与えるという子育ては、結局、その子供たちをダメにしてしまいます。
   
つまり、お金に裕福であることが逆に不幸になってしまう危険もあるのですよね。
そして、お金が有ることが不幸ならば、そのお金をすべて捨ててしまえばいいという感覚から、結局、別な宝のほうをお金と引き換えに交換して手に入れればよいと思ってしまうのかもしれませんね。
  
ですから、その捨てるようなお金で得た宝物もまた結局捨てても良いものに等しいのです。
   
これも究極の未練や執着心がそうさせるのかもしれません。
これは、結局、お金が必要以上に有る者と、必要以上に無い者とでは、その境遇は、ただお金が有るか無いかの違いだけで、まったく状況は同じだといえることがあるといえます。
   
ただし、これはお金が有る者と無い者の両者がどちらもが、お金に執着しているということから起きる通常の結果なのでしょう。
そこにお金集めの方法手段が上手か下手かの違いが表に現れているだけなのです。
   
また、お金を集めることが下手な人ならば、限りあるお金をなるべく多く使わないで済む堅実な消費をしようとする判断や知恵を持つ手段を選ぶでしょう。
ですから、お金に関して消費の賢さにもその差が現れてくるだけなのです。
   
このようにお金だけを究極の目的に競争を繰り広げる社会には、ただ同じお金への執着性質の人間がその競争手段だけを別々に選んで競争が進んだだけのことなのです。
   
そして、その別々の手段の両者には仲間勢力を築こうとして共同派閥が生じてくることもあるでしょう。
それにより誰も彼もがどちらかの派閥に所属させられ、生涯通じてただお金だけを目的とした競争に終始、明け暮れてしまっているだけなのです。
   
しかしながら、お金というものが、せめて違う手段の派閥同士をお金以外での公平で同等な人生境遇を各々に与えているようなものなのですね!
    
第2-27日 Vol.55  妙荘厳王の夫人淨徳と二子淨藏・淨眼 【妙荘厳王本事品第二十七】(四行~十行)
  
妙莊嚴王本事品第二十七.jpeg

『釈迦の説明する威音王如来の小乗説法』♡常不軽菩薩品第二十(2) [常不軽菩薩品第二十]

ここで釈迦が説明している大昔に居たという威音王佛がどのような説法の方法を用いていたかということに対し、それが必ずしも修行方法として重要だということであるとは限らないようです。
ただ、釈迦はそういう教え方を威音王佛がしていたと紹介しただけだというふうに考えてみることも大切だと思います。
   
ですが、声聞を目標とする者には四諦の法、辟支佛を目標とする者には十二因縁の法、菩薩として阿耨多羅三藐三菩提を目指す者には六波羅蜜の法をと、各々の力に応じた、相応しい法で成佛を教えようとしていた概念は非常に参考にできることを釈迦は伝えたいのだと思います。
   
とりあえず、声聞や辟支佛(縁覚)の位というものは、一応、私たちの住む三界を超越した、更に天神などの居る天上界よりももっと上の位であって、古くから声聞や縁覚とは学者や知識人、或は一同一芸に優れた芸達者といわれるとても高い知識力をもつ地位にあるのですが、とかく独善的なさとりに拘り、他を利益するための利他の心がないともされているのです。
   
そういう嫌われ扱いの声聞・縁覚に対しても、しっかりした佛法教育を施そうと試みた最初の頃の珍しい如來がこの威音王佛だったらしいです。
ですから、そういう精神を古くから釈迦も十分見習っていたということらしいです。
   
また、四諦の法、十二因縁の法、六波羅蜜の法の修行上のランキングがあるらしいこともこの品からわかるようですね。
即ち、これら3つの法は古くからさまざまな佛が用いてきたのです。
   
しかし、釈迦は最終的にこれらの旧来の法は皆、小乗に対する方便説法であり、本来の一佛乗、即ち無上道の教えではないということを説き、唯一の大乗の教えを開拓し、釈迦自身が真実の悟りを得ることができたのであることがとても大事な意味なのです。
 
第2-20日-威音王如來-劫を離衰-國は大成-常不軽菩薩品第二十-四行-十一行/
 
常不軽菩薩品第二十.jpeg

『佛への和解と経典への理解』 従地涌出品第十五(2) [従地涌出品第十五 法華経]

この従地涌出品第十五で釈迦は、他方の国土から来た菩薩たちが、釈迦の住む娑婆国で法華経を普及させることをぜひ自分たちにも協力させてくださいと願い出たことに対し、どういうわけか釈迦はこれを受け入れず、「やめなさい、汝等がこの法華経を護持し、この娑婆世界で普及させることを必要としない。なぜならば、私はこの娑婆世界に自らすでに多くの菩薩を保有しており、それらが私の死後、この娑婆世界で法華経を受持ち、学習し、説法して普及することになっているからである」と言って断ったのでした。
 
この釈迦の判断はこの法華経の中でも大きな謎のひとつなのですが、果たしてこの意味としては、たとえば進んだ修行をしてきている他方国土の菩薩たちにより、釈迦の死後のこの娑婆世界を乗っ取られたり植民地化されることを釈迦は恐れているのでしょうか?
また、他国からの植民化要請は元の国民の為にはならず、決して受け入れてはならないという忠告だったのでしょうか?
 
ところでここで、教菩薩法・佛所護念の佛所護念とは何であるかを考えてみましょう。
佛所とは恐らく佛の居る所、つまり或る佛の所在する国であるとすれば、その佛所を護念するということではないかと思います。
そして、様々に存在する佛にはこの世を支配する為、各々一つずつの国が与えられ受け持たされているようであるのです。
ところで、国とはそもそもこの世に暮らす私たち衆生が自ら創り上げて運営しているものでしょう。
しかし、その国の運営が私たち衆生だけでは極めて難しい困難に至った時、佛の智慧の力を借りて再建をしていくわけです。
それであっても、佛とは知恵は与えても困難に打ち勝つ努力そのものは衆生自らにやらせたいのです。
そのために佛は滅度してみせ、その後、涅槃に入り、あえてこの世から消え去るのです。
 
それによりその国の衆生たちは佛の居た頃と居なくなった涅槃後を比較して、佛の居てくれた頃の有り難さを切に身に染みて自ら知ることになるのです。
その佛への労りや感謝による御供養を長らく務めた後、実は人間一人一人がその供養を終了する時が来るのです。
その対象の佛への長い供養が済んだ者こそが実は法華経を自ら護持し、学習し、説法して普及する者であるということなのです。
 
つまり、他方国土の菩薩には度り来た国での法華経普及はさせないという意味が理解できましたでしょうか?
 
第2-15日 Vol.43  地中から涌出した娑婆世界の菩薩たち 【従地涌出品第十五】(五~十行)
 
従地涌出品第十五images.jpeg

薬王菩薩と中国・日本の関係 【法師品第十】その2 [法華経 法師品第十]

薬王菩薩はとても日本人的な性格であるようにも思えます。
短所のほうが逆にその者の普段のほめられる性格のように表に現れていて、なかなか本来のその者の良い性質である長所の特徴が内面に隠れこんでしまっている、そんなある意味では典型的な日本型に似ていると言えるのではないでしょうか。
   
もしこの日本人型にも思える薬王菩薩の存在は、法華経を最終的に編さんした中国にて空想上わざと作られた人物像と考えますと、当時の中国としては法華経が日本へいずれ渡って行くことを想定し、日本国内に於ても広く普及していくことをあらかじめ綿密に狙っていたかもしれないなどと思えてくるのです。
   
そのように中国は法華経の普及に関して非常に日本への思いやり的な交流を目論んでいたものと考えることも十分できると思いますね。
ですから、日本と中国とは特に仏教を通じてとても交流が盛んだったのが大きな特徴なのでしょうが、それにもかかわらず明治時代以降の日本は中国(当時の清)に対し大戦争を挑み、なんとその大陸国である中国を日本は見事敗北させた事実があったのでした。
   
それが日清戦争であり、戦争の勃発原因は朝鮮国を挟んで、朝鮮国は中国と日本のどちらが歴史上の関連深い国であるかの論争が起き、中国が朝鮮国を独占して殖民支配しようとした際、日本はその朝鮮国としての滅亡を救い、独立した自立国とするために戦ったと云われているのです。
   
朝鮮国といえば西暦6世紀の頃は百済という名の国であり、日本へ仏教を伝えたのがその百済国だったことはよく知られていますね。
その際もすぐに日本へいち早く渡って来たのは法華経だったのです。
その直後、日本の聖徳太子は法隆寺を建設するなど、仏教、それも法華経普及に関して日本での第一人者だったのでした。
  
なお、日清戦争に勝てた日本は、その勢いに乗ってか、またまた日露戦争にも連続して勝利したのでした。
実にそんなことまでは知っていましたか?
武士支配の時代がいきなり終わり、はじめて外国文化や技術を取り入れ出したばかりの明治時代の日本が、なんと中国とロシアの世界一流の大陸国と戦って勝ち取るなんて、当時の世界では夢にも予測できたでしょうか?
   
その思いも寄らない不思議な日本の底力は、どの国よりも法華経を懸命に学んできた国だったからに相違ないでしょう。
 
第2-10日 Vol.38  衆生を愍むが故に此の人間に生ずるなり 【法師品第十】(六~十三行)
法師品第十6images[1].jpeg
   

『先細り続ける釈迦の末法』信解品第四その3 [信解品第四]

法華経を生き物のように感じれることは出来ますでしょうか?
現代の常識ではないけれど、確かに現代そのものを動かし続けているのは法華経なのだと思えています。
   
現代の変化はとにかく著しいですね。その変化が著しいということは一体何を意味しているでしょうか?
変化が著しいということはそのまま不安定であるということですよね。
つまり歴史上長らく続いた安定基盤が崩れているということです。
   
その昔ながらの安定基盤とは何を隠しましょう釈迦の法そのもののことです。
法華経は永遠に不滅であることに対し、釈迦の法は現代はすでに末法時代というどんどん先細りの状態にあるのです。
   
今、釈迦の法を正しく理解することは釈迦は特に感謝はしてくれることでしょう。
しかし、その正しい釈迦の法の影響力はすでに乏しいようです。
「煙尽きて火消ゆるが如し」釈迦の法則が滅亡していく末法の現代、釈迦への供養は今こそ釈迦を最も喜ばせることができる時なのです。
 
第3-4日 Vol.60  我等をして三界を出で 【信解品第四】(九行~十四行)

【ぶっけんからのお知らせ】


阿羅漢と菩薩 【序品第一】 [序品第一]

古くから菩薩は存在していたのですから、菩薩は確かな伝統的な知性とプライドを保持している階級組織であるわけです。
そこを勘違いしますと、菩薩が新しい組織で阿羅漢のほうが古くから存在してきた伝統組織と思い込んでしまいがちと思われますので、だいぶ注意が必要でしょうね。
   
つまり、阿羅漢というお金を得れる仕組みを保有する格付けこそ、当時の新しく考え出され運営され出していた新組織体制であることを今一度はっきり認識してかからなければなりません。
   
その阿羅漢という新組織体制へ釈迦は先ず指導に入り込んだことが重要なテーマになっているように思うのです。
そして、その阿羅漢弟子以外の姨母や妻を学・無学人の中に所属させていたこともまた重要なヒントなのです。
ここで何となくピンときませんか?
そうです!釈迦は学・無学人と見なせる姨母や妻を伝統的組織の菩薩集団へ秘密にスパイさせていたのではないかという計画疑惑が思い浮かぶのです。
 
第3-1日 Vol.57  学・無学人および菩薩摩訶薩も倶なり 【序品第一】(七行~十六行)
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